三国志13PK 夷狄滅び、漢室復興なるのこと
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ごきげんよう、フェンリルです。

前回は中原の大動乱、激闘につぐ激闘でした。

できる限り早く敵勢力を駆逐したいところですが……

果たしてどうなるか?

現状確認

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現状黒狼軍団は長安・洛陽・弘農・河內・陳留の五都市を任せられている。

軍団の目標は、漢中・安定・天水の奪取。

すなわち呼廚泉軍と、本格的にやり合うことになったのだ。

目標は三都市の陥落だが、一気呵成に呼廚泉を討ち滅ぼしたいところ。

まずは安定から攻めるとする。

呼廚泉軍を滅亡させるのこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒狼軍団はおよそ十ヶ月で呼廚泉軍を滅亡に追いやった。

しかし、重要拠点の漢中を沙摩柯軍に奪われてしまう。

沙摩柯軍とは同盟を更新したばかり。

ひとまずは沙摩柯軍は放っておく他ない。

黒狼は次なる目標を孟獲軍に定めるのであった。

威名「権威」を名乗る黒狼、果たして奸臣か忠臣か?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数々の経験を経て威名「権威」を名乗る黒狼。

この威名「権威」は都市の金を自由に着服可能という特性を持っている。

これだけ見ると紛れもない奸臣である。

しかし、威名「権威」は私財を投じて兵士を雇い、兵糧を買うことも可能。

私財を投じて勢力に貢献する、これは忠臣の行いだろう。

清濁併せ呑む……

果たして黒狼は奸臣か、忠臣か……

反劉備連合誕生、劉備軍最大の危機!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

孟獲攻めの準備をしていた黒狼に、衝撃の知らせが舞い込んできた。

なんと士燮・軻比能・孟獲が手を結び、合従連衡したというのだ。

これにより劉備軍は最大の危機をむかえることになるのであった。

反劉備連合瓦解し、南蛮王孟獲屈服す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反劉備軍の侵攻。

北・東・南からの同時侵攻を辛くも防ぎきった劉備軍。

一点反撃に転じた劉備軍の大都督・黒狼はその勢いのまま孟獲軍を屈服させた。

これにより残る夷狄は士燮・軻比能・沙摩柯の三国。

戦いはいよいよ苛烈を極めるのであった。

劉備軍の反撃、激闘の河北侵攻戦!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反劉備連合瓦解、これを受けていよいよ劉備本軍が動き出した。

河北に割拠する軻比能軍。

これを撃滅し、河北を解放するために。

そして劉備より黒狼軍団にも出兵が要請された。

これを受け、黒狼も動く。

涼州、益州の守りを残し長安から十万の軍を出撃させたのだ。

これにより劉備軍と軻比能軍の一大戦役が幕を上げる。

軻比能軍滅亡し、沙摩柯軍との戦端が開かれる

軻比能軍と劉備軍の一大戦役。

長期戦が予想されたが、そうはならなかった。

西方より攻め立てる黒狼軍、官渡から北上する劉備本軍。

この挟撃に軻比能は対応しきれなかった。

黒狼軍団と劉備本軍、どちらにも対応しようとした結果、

どちらにも中途半端な兵しか送れなかったのだ。

初戦で甘陵を落とされると、あとは雪崩を打つように崩壊していった。

そして二百六年九月、一時は河北を制した軻比能軍は滅亡したのである。

しかし黒狼たちには喜びに浸る暇はなかった。

突如として沙摩柯軍が陳留に二十万の大軍で攻め寄せたのである。

黒狼は急ぎ陳留の防衛に走った。

これが世にいう沙摩柯の乱である。

黒狼、劉備の方針を無視し、沙摩柯を攻める

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

順調に沙摩柯を攻めていた黒狼。

そこに劉備から信じがたい命令が届いた。

今後の方針として内政充実を優先させ期間中は攻略を禁じる、というものである。

史書によれば黒狼はこのとき劉備からの命令を完全に無視したのだという。

そのときに孫氏の孫子九変篇第八の五利にある「君命に受けざるところあり」を引用したとされている。

沙摩柯と士燮結び、黒狼交州強襲す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中原から沙摩柯の勢力を一掃した黒狼。

その勢いのまま荊州攻めを行い、破竹の勢いでこれを平らげた。

これに危機感を覚えた沙摩柯と士燮は手を結ぶ。

しかし、黒狼の勢いは止まらず士燮軍は交州の支配を失ってしまうのであった。

士燮軍が交州に配置していたのは、およそ16万程度の兵だったと言われる。

そして小覇王・孫策とその親友美周郎・周瑜がそれを統率していたと残されている。

それに対して黒狼軍団はおよそ八万程度、常識的に考えれば不利な盤面。

果たして黒狼がいかなる手段を用いて孫策と周瑜をこれ程の短期間で破ったのか。

詳細は史書に残されておらず、研究者の間でも度々議論の的となっている。

夷狄滅び、漢室復興なるのこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして対劉備で結束した沙摩柯・士燮。

しかしもはや全ては遅かった。

これまで四つの夷狄を滅ぼした劉備軍の精兵には全く歯が立たなかったという。

こうして二〇八年五月に沙摩柯軍が、二〇八年九月に士燮軍は滅び去った。

これにより見事「漢」が蘇ったのである。

 

その後献帝こと劉協は劉備に帝位を禅譲。

劉備は光武帝・劉秀に並ぶ名君として蘇った「漢」を統治し、

その後「漢」は300年の長きにわたる平和を享受することになったのである。

 

黒狼は漢再興の名臣筆頭として、軍部を統括。

はるか遠くのローマまでその名声を轟かせたという……

 

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